普通の日常なのに、どうして
車を運転していると、視界に入る景色がどんどん流れていき、運転に集中してはいるんだけれど、「これって現実なのかな」と、ふと思う。
なんてことない普通の日常なのに、どうしてか、現実感がない。
私は生きていて車を運転していて、ハンドルを握る感触もあるしアクセルとブレーキを踏み、カーステレオからは音楽が流れ、フロントガラス越しの空は青い。
それなのに、端的に、生きている実感が薄い。
それは昔からで、今思うと、高校生になったばかりの頃からだったように思う。
小学校と中学校は学区が他と交わらず、9年間、同じ顔触れの同級生と過ごした。
中学校を卒業したら、いきなり見知らぬ人の波に放り込まれる高校生活が始まった。
私は自分が人見知りではないと思っていたのに、高校生になった途端、別の私に取って代わったようで、あまり喋らなくなり、他人の目を気にするようになった。
今なら、自分があの時〝適応障害〟になっていたのだということがよく解る。
私は新しい環境に適応出来ず、鬱病か統合失調症になりかけていたのだと思う。
看護学校で精神科の医師が話してくれた内容にハッとした。
「この症状は、非常に現実感がない。外の景色を見ても、現実のものと思えない、自分のことも自分であるという認識が薄く、とにかく奇妙な感覚を覚える」
ああ、これか、と思った。
常になんだか奇妙な感覚があって、ふとした拍子に、「あれ……これって、現実なのかな?本物なのかな?」と、思う。
それが病気のせいなのかも知れないと理解した時、わたしは安心した。
わたしがおかしいんじゃないんだ、病気だからなんだ。
開き直る訳じゃないけれど、私は人生の半分くらいを生きてきてやっと、自分の弱さ、脆さが病気からくるものであると理由を得て、少し安心出来たのだ。
何故、新しい環境に身を置く度に、精神的なストレスを異常に強く感じるのか。
環境の変化に心がどう頑張っても追い付かず、身体も徐々に悲鳴をあげて限界だと叫び、とうとう布団から出られなくなり、動悸が激しくなる。
この自分の弱さを、普通の人が普通に出来ることが出来ないと己を卑下してきたけれど、でも、それは病的なものであると知った今は、仕方がないなと諦めることが出来る。
今まで自分を変えたくて、変えなければいけないと思い詰めて、いろいろな自己啓発本を読んできた。
心を強くする方法。気にしない方法。レジリエンスの高め方。哲学、あるいは仏教の教え。
それらは自分を納得させる方法ではあったけれど、やはり自分自身を根本から変えることは不可能なように思う。
性格は変えることは出来るのかも知れないけれど、性質はおそらく変えることが出来ない。
そして、わたしの気質は鬱や統合失調症を発症しやすい気質なのだ。
周りの景色の現実感がなくなり、自分という存在さえ生きているかどうか現実的ではないと感じる時、ああ、今のわたしは精神的不調なんだと気付くことが出来るようになった。
それだけでも良かったと思う。
わたしはずっと、普通の日常なのに、どうしてこんなに違和感を覚えるんだろう、と不思議だったから。
他の人と同じように働いたり結婚したり、普通でいることが出来ないのはなんでだろう、と心苦しかったから。
それはわたしの、シゾイドパーソナリティという性質にも深く関係してくるのだけれど、その話は、また後日にでも……。